道塚の歴史

◆ 道塚の歴史 ◆

◆ 道塚の地理
  大昔、大森貝塚に見られるように海の底にあったこの一帯は、度重なる多摩川の洪水により上流から運ばれた土砂の堆積で、次第に平地になったものと推測されます。周囲には、大森駅近くの山王台地、池上本門寺のある池上台地、久が原台地、亀甲山のある調布嶺町台地があります。これらの台地は、関東平野の武蔵野台地南端にあたる所で、海抜十数メートルで道塚小学校付近は海抜4メートルほどです。

◆ 道塚の地名の由来
  道塚は「みちづか」と読みます。
江戸時代中期に編纂された「新編武蔵風土記稿」には、「道塚村は郡の南、多摩川の果て、鎌倉街道沿いにあり、小鳥塚または独鈷塚と呼ばれる塚があった」と記されています(独鈷とは、密教の修行に用いる仏具の一種です)。
  ※ ➡ 独鈷の画像いろいろ
街道沿いに塚があったことからこの一帯が道塚と呼ばれたという説と、三つの塚があったことから三塚、変化して道塚になったという説などもあります。
小鳥塚あるいは独鈷塚は、触ると祟りがあるとも伝えられていました。
開村の時期は不明ですが、江戸時代初期に編纂された「武蔵田園簿」には、荏原郡道塚村の文字が記されています。

◆ 明治以降の道塚
  明治22年(1889年)
矢口村に編入され大字道塚となる
  大正12年9月1日(1923年)
関東大震災で、道路の壊れ、田畑の地割れ、土手の崩れなどの被害がありましたが、
純農村地帯であったことから大きな被害は無く、東京や横浜方面から沢山の人たちが避難してきて、そのまま住み着いた例も数多く見られました。
また、折からの盛んな工場開設により次第に人口も増えてきました。
  昭和7年(1932年)
蒲田区道塚町となる
  昭和22年(1947年)
大田区に属す(大森区と蒲田区の二区が合併し大田区誕生)
  昭和29年5月(1954年)
道塚自治会の設立
道塚自治会 旗 H250
  昭和42年(1967年)
町名変更によりこの地は、新蒲田二丁目、三丁目となる
  平成13年4月28日(2001年)
道塚自治会館落成式典開催
  現在、道塚の地名は道塚小学校みちづか幼稚園などに僅かに名を留めています。 かつて目蒲線に本門寺道駅がありました。この駅が少し位置を変え道塚駅に改称され、昭和21年(1946年)の廃止まで存在していました。
現在の地図上では、東急多摩川線が環状八号線と交差する付近で、当時は小林町だったそうです。
 
   
  平成26年5月で自治会創立60周年(2014年)
平成26年6月16日プラザ・アペアで創立60周年記念式典を開催
:arrow: 道塚自治会創立60周年記念式典

  平成28年1月(2016年)
第12回地域の防火防災功労賞・感謝状を受賞
 :arrow: 「第12回地域の防火防災功労賞」とは?
防災功労賞 消防庁 2016年受賞感謝状 消防庁 2016年受賞優秀賞
  平成29年4月(2017年)
道塚自治会が、東京防災隣組第六回認定団体、に認定されました。
(※ :arrow: 「防災隣組」とは?

  平成30年3月3日(2018年)
大田区の地域防災力向上の一例として、平成29年度(2017年度)の防災活動事例を発表しました。
(※ :arrow:1.【道塚自治会】防災への取り組みと活動事例
(※ :arrow:2.【道塚自治会】防災への取り組みと活動事例

◆ 道塚の学校
  明治6年(1873年)、中山ムメという人が東京府の許可を得て、大楽寺を借り寺小屋(塾)を開設します。

科目は筆道(今の習字)で、暮らしに必要な読み書きを主に教えていました。
月謝は一銭とお米五合で、数十人の子供が通っていたそうです。
  ※ ➡ 大楽寺(玉川八十八ヵ所霊場のうち第六十七番札所)
   大楽寺②
 
◆ 道塚の学校の遍歴
  明治11年(1878年)、矢口村に大田区内8番目の薫泉学校が建てられました。
今泉、蓮沼、小林、原、安方、古市場、下丸子、矢口の八ケ所の連合で、生徒数は72名、うち女子は10名ぐらいだったそうです。
明治5年に学制が敷かれ全国に学校ができましたが、当時の矢口村は貧しくて学校を建てることができず、道塚の子供たちは六郷学校(明治8年開校)まで通っていました。

薫泉学校開校後、道塚、原、小林、安方、蓮沼の五ケ村の戸長の後藤慶太郎さんが中心になって金剛院を借りて薫泉学校の分校をつくりました。
  ※ ➡  金剛院(玉川八十八ヵ所霊場のうち第六十五番札所)
この分校が後の小林350番地の明林学校となり、さらに安方323番地(今の矢口東小の東側)に5教室を増して移設し矢口小学校として開校しました。
道塚の子供たちは、昭和13年(1938年)に道塚小学校ができるまでこの小学校に通っていました。
  金剛院  金剛院02
  
◆ 道塚小学校の誕生と敷地の整備
  昭和11年8月ごろ(1936年)
矢口村の人口増で、道塚に学校の誕生が望まれていたこともあり、今の道塚小学校付近が建設予定地と決まりました。道塚小学校
当時の中務利平さん所有の広い屋敷跡で大きな池や大木、雑草が生い茂り、昼も暗く腕白小僧も一人では心細くて中に入れなかったそうです。
  ➡ 道塚小学校


  大正12年6月15日(1923年)
東京府から道塚小学校の建設許可が下りました。
  昭和13年5月30日(1938年)
F字型の2階建て24教室が出来上がりました。
  昭和13年6月10日(1938年)
2階3教室(打抜教室)で開校式が行われ、5年生以下の子供たち約800名が、矢口小、矢口東小、相生小、西六郷小から移ってきました。
  平成17年5月21日(2005年)
全国学校関係緑化コンクール小学校の部で入選しました。道塚小学校花壇 統合

学校環境を改善しようと道塚小学校の先生方、地域のボランティアグループの皆さんが汗を流して瓦礫などを掘り起こし敷地の緑化を進め、この活動が認められ表彰されました。

この活動は、平成13年(2001年)ごろから「作物を栽培できる畑」を、平成14年には学校南西の角を花壇として使うために開墾・整備し、一部で「さとうきび畑」をつくりました。

平成15年(2003年)に道塚栽培クラブを結成し、メトロレンガを花壇の通路に千個敷いています。  ※メトロレンガとは焼却灰から作ったレンガで東京都下水道局から頂く

平成16年(2004年)には栽培委員会(児童会)と道塚栽培クラブの合同活動による花壇や畑つくりなどの成果で四季折々に多種多様な植物が花開く学校になりました。


◆ 道塚行進曲
  瓜生茂道塚小学校初代校長が作詞した「道塚行進曲」の石碑が正門を入って左側にあり、この歌は折に触れ歌い継がれています。道塚行進曲
  紫匂う武蔵野の
  東にかすむ蒲田区に
  いらかは高くそびえ立つ
  これぞ我らの道塚校

◆ 道塚神社(神社建設記念碑より)
  創建年代は不詳ですが、江戸期に日月宮と称していました。
 ※ ➡道塚神社
  道塚神社  道塚神社②
  天保2年(1831年)
天祖神社と改め、天照大神を祀ります。
     

       
       
       

※加筆修正箇所がありましたら、道塚自治会まで連絡をお願い致します。
本記事は、かまにし21号(平成18年9月1日発行)、かまにし33号(平成21年9月1日発行)を参考にさせて頂きました。ありがとうございました。

  【2021年6月7日更新】    ➡ ページ先頭に戻る